北方四島も竹島同様に不法占拠状態です
先日、竹島問題について考察を行い、韓国による実行支配が行われている竹島が歴史的にも国際法上も明らかに日本の領土であることを確認しました。→ ブログ記事
さて、ロシアによる実効支配が続いている北方四島の話に移ります。ソ連軍によるわが国領土の北方四島の侵犯が、ちょうど67年前の1945年の今日始まり、それ以降ソ連、ロシアによる不法占拠が続いています。このように忘れべからざる日であるこの日に、この問題について改めてレビューすることは意義あることです。
北方領土問題についても、やはり外務省のホームページに詳しく述べられています。 → 外務省北方問題ページ

(出典:外務省HP;以下同様)
(まとめ)
まず、北方四島とは、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島のことです。
日本はロシアより早く、北方四島の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々にこれらの島々の統治を確立しました。それ以前も、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。1855年、日本とロシアとの間で全く平和的、友好的な形で調印された日魯通好条約(下田条約)は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。それ以降も、北方四島が外国の領土となったことはありません。
しかし、第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の1945年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領しました。当時四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいましたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、1949年までにすべての日本人を強制退去させました。それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いています。
(国際法上の歴史的経緯)
北方領土問題が発生するまでの国際法上の歴史的経緯は次のとおりです。
(1)日魯通好条約(1855年)
日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立しました。19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。日露両国は、1855年、日魯通好条約において、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。

(2)樺太千島交換条約(1875年)
日本は、樺太千島交換条約により、千島列島(=この条約で列挙されたシュムシュ島(千島列島最北の島)からウルップ島までの18島)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。

(3)ポーツマス条約(1905年)
日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北緯50度以南の部分を譲り受けました。

(4)サンフランシスコ平和条約(1951年9月)
日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。

以上の流れから分かるように、国際法上は北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)がわが国に帰属することは明々白々です。
ところが、 第二次大戦終戦後の1945年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領しました。さらにソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、1949年までにすべての日本人を強制退去させました。それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いている訳です。
北方四島と竹島のいずれについても同様ですが、国際法上の歴史的検証を行い、いくらわが国の主張が正しくとも、他国の実力行使により不法な実効支配が続いている「不正義」な状況を覆すことは極めて困難です。まさに敗戦国の悲哀です。
私たちは、この不正義な真実を風化させることなく一人一人が胸に刻み、強い国力を背景とした外交的手段により国際正義の実現を目指す息の長い取組が肝要です。
(参考)
● 外務省の竹島問題ページ@外務省HP
● Wikipedia 「北方領土問題」
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